『拘束のドローイング』

bitware2006-02-13

マシュー・バーニー『拘束のドローイング』
作家の意図に沿えば、身体に拘束を与えたドローイングということらしい。写真、映像、彫刻といったメディアの重層性を利用しながら、身体、風景や物語といった伝統的な要素を語っていくことなのだろう。ま、その意図の一貫性は了解することにしても、強烈な変身願望に対するオブセッション(強迫観念)を日本の捕鯨などの習俗・文化と融合、神話化させ、それを映像化しようとしたのだろう。ただ、テーマそのものはそれほど新しいものではない。身体や形の変容は、歴史上数多くの作家が取り組んできたことで、それはおよそ表現媒体に依存している。とにかく、まずは映画館で上映されるという手段の錯誤は痛い。
これといって抑揚のない平坦な物語もいい。2時間半に及ぶ退屈な時間もいい。ひとつの叙事詩や物語をめざす上昇志向もいい。コスプレを高尚なモノに見せようとするのもいいだろう。ただ、シーンの構図や色彩あるいはシーケンスに相当な高い技術と緻密な構成が求められはず。ところが、どれを取っても、アーティストとしての資質を疑わざるを得ないほど凡庸である。結局はビョークのキャラクターとオリエンタリズムに依存している。そして、意外にも、マシュー・バニーは映像というメディアをそれほど理解していないことが次から次へと目に飛び込んでくる。意味のないクローズアップや平凡な俯瞰など。
それにしても、ビョークは鬱陶しい。声も姿も鬱陶しい。あんなセンスの悪い田舎娘をレスペクトするのは文化的なテロリズム以外のなにものでもない。映画館で映画を見たのが久々だったけど、シネマライズは足が伸ばせるので、いいかな…音は悪いけど。