学力は貨幣価値である?!

学力を貨幣価値と思っている人たちがいる。しかもそれほど少なくない人たちが日本ではそう思っている。教育を論じるのはもちろなんきれいごとであるが、厄介なのはコンプレックスが介在してしまうことである。せっかくのきれいごとが血液ドロドロの議論になってしまうのだ。
自分が学力が低い、あるいはあまり人に言って自慢できるような学歴ではないことをどこかに秘めた人たちが入ってくると、もう大変である。教育論そのものが成立しない。議論にならず、時間はムダになる。コンプレックスが「負のマインドセット」とは限らない。ただ、学力を貨幣価値に単純に変換してしまう人やスーパーブランドを「信仰」するように有名な学校を求めている学力コンプレックスをもつ人たちと場を共有することは、すくなくとも「正のマインドセット」とはなり得ない。とにかく時間の無駄なのである。そういう「負のマインドセット」は自分が理想の物語の登場人物ではないことを知ると、他者に責任を転嫁しはじめる。また、自分が描いていた物語が急に悲劇になってしまったような気がしてしまう。それは一般的に被害妄想や幼稚だと言って片付けられる問題であるが、これが教育の文脈に滑り込んでくるとなかなか厄介である。学力が好奇心や向上心が基礎となることは言うまでもない。本来好奇心や向上心は「正のマインドセット」である。しかしながら、学力コンプレックスは好奇心や向上心を偏差値やブランドに巻き込んでしまう。そこが厄介なのだ。もうそこには知的な議論ができる素地はない。(そのうち、つづく)
「学力=貨幣価値」への批判がお行儀よく書かれているのは以下だ。

学力を問い直す―学びのカリキュラムへ (岩波ブックレット)

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