Cool Feet

熱くなってきた。ラップトップを額面通り膝上で愛用している僕の膝はすでに低温やけど状態である。しかもこの時期になるとさらに暑い。これに対する対策はそれほどむずかしく考えない方がいい。変に冷やしたりするよりもノートパソコンの底と設置面(机や膝)との間に距離をつくりさえすればいいのだ。その簡単なことをデザインコンシャスにしちゃったのがこのCool Feetという製品。頑張っています。トリニティ。
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agbar(アグバル)

ジャン・ヌーベルによるスペイン・バルセロナの水道局。新しいバルセロナの観光名所となっているらしい。たまたまサッカーネタで検索していたら、何とS・THE STORIESというページで、ディレクターの取材こぼれ話的にTorre Agbarが紹介されていた。さらにはご丁寧にも動画までアップされている。実際にまだ見たことはないけど、ジャン・ヌーベルの割に少し鈍重なデザインだと思っていたが、夜の様子を見るとなかなかの見応えがある。水道局なのに…。さすがはバルセロナということにしておこう。

唱歌集

「夏が来ぬ」は鮫島有美子も唄っている。作曲の小山作之助と作詞の佐佐木信綱周辺はなかなか調べがいのある時代背景だ。ただ「唱歌の現在」も気になるのだ、「現在」をいろいろ聞いたり調べたりした。まずは音楽の教科書である。現在の音楽の教科書にも「文部省唱歌」は収録されているが、昔ほどではない。むしろ健全な「元・流行歌」のようなものが目だつ。いいのか悪いのかわからない。でも120年経過して俗語革命が終わったことはどうやら確かのようだ。

鮫島有美子「ディスカヴァー2000」(8) ゆりかごの歌~童謡・唱歌集

鮫島有美子「ディスカヴァー2000」(8) ゆりかごの歌~童謡・唱歌集

夏は来ぬ

季節柄もあり「夏は来ぬ」で再び唱歌ネタ。
NHKBSで放映された、新妻聖子という歌手が歌っている。初めて目にした名前である。どうやらミュージカル歌手らしい。少なくとも「夏は来ぬ」は安田祥子よりもいい。「夏は来(き)ぬ」というタイトルは「来(こ)ぬ」ではなく「来(き)ぬ」なので「夏が来た」という意。
「夏は来ぬ」は瀧廉太郎を見出した小山作之助の曲に佐佐木信綱の詞。明治29年(1896年)5月に刊行された「新編教育唱歌集(第五集)」に収録されたもの。これを見ても間違いなく唱歌は「日本らしさ」をフレームアップし、明治期の詩人や国文学者は最大のテクノクラート(専門官僚)だったことがわかる。


卯(う)の花の、匂う垣根に
時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ


さみだれの、そそぐ山田に
早乙女(さおとめ)が、裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる、夏は来ぬ


橘(たちばな)の、薫る軒場(のきば)の
窓近く、蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる、夏は来ぬ


楝(おうち)ちる、川べの宿の
門(かど)遠く、水鶏(くいな)声して
夕月すずしき、夏は来ぬ


五月(さつき)やみ、蛍飛びかい
水鶏(くいな)鳴き、卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす、夏は来ぬ


金賢姫

金賢姫元死刑囚が拉致被害者の家族二人と釜山で会談。それにしてもあの金賢姫という女性のオーラは何なんだ?!何かとても何かとらえどころのないオーラが漂っている。
日本のどのメディアでもトップニュースであるが、どの局もなぜか「お母さんに似てますね」という金賢姫の映像を連発して放映。連発すればするほど、焦点が暈けていく。会談の会場に来たメディアのほとんどが日本のメディアだったようで、釜山で金賢姫が登場するのに韓国のメディアは2社だけだったというのもなかなか興味深い点である。
結果的に、日本のメディアはどんな経緯で今回の会談が実現したのかという点はあまり詳らかにしていない。成果が最初から期待できないことは誰もがわかっているわけで、報道すべきは今回の会談が実現した背景や経緯であるはず。それができないばかりか、金賢姫の現在における存在感や意味も、ちゃんと評価しないまま過去の経緯だけで報道する安易さ。多分オーディエンスをバカにしている日本のメディアだから、それも仕方はないか…

平田篤胤と耶蘇教

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篤胤の「神学思想」がもとを質せば耶蘇教だ。村岡典嗣大正九年に「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」という論文で指摘したことだ。国家神道国学がなぜ神の上に成り立っているのかという問題にも関わる問題である。国学を研究している人たちにとっては言わずものがなの話なのかもしれないけど、国家神道の「発明」がやはり一神教への指向があったという意味では尊皇思想も欧化主義の一側面であることを知ったような気がして、すこしわが意を得たりという感じ。

学力は貨幣価値である?!

学力を貨幣価値と思っている人たちがいる。しかもそれほど少なくない人たちが日本ではそう思っている。教育を論じるのはもちろなんきれいごとであるが、厄介なのはコンプレックスが介在してしまうことである。せっかくのきれいごとが血液ドロドロの議論になってしまうのだ。
自分が学力が低い、あるいはあまり人に言って自慢できるような学歴ではないことをどこかに秘めた人たちが入ってくると、もう大変である。教育論そのものが成立しない。議論にならず、時間はムダになる。コンプレックスが「負のマインドセット」とは限らない。ただ、学力を貨幣価値に単純に変換してしまう人やスーパーブランドを「信仰」するように有名な学校を求めている学力コンプレックスをもつ人たちと場を共有することは、すくなくとも「正のマインドセット」とはなり得ない。とにかく時間の無駄なのである。そういう「負のマインドセット」は自分が理想の物語の登場人物ではないことを知ると、他者に責任を転嫁しはじめる。また、自分が描いていた物語が急に悲劇になってしまったような気がしてしまう。それは一般的に被害妄想や幼稚だと言って片付けられる問題であるが、これが教育の文脈に滑り込んでくるとなかなか厄介である。学力が好奇心や向上心が基礎となることは言うまでもない。本来好奇心や向上心は「正のマインドセット」である。しかしながら、学力コンプレックスは好奇心や向上心を偏差値やブランドに巻き込んでしまう。そこが厄介なのだ。もうそこには知的な議論ができる素地はない。(そのうち、つづく)
「学力=貨幣価値」への批判がお行儀よく書かれているのは以下だ。

学力を問い直す―学びのカリキュラムへ (岩波ブックレット)

学力を問い直す―学びのカリキュラムへ (岩波ブックレット)